僕の思考の手帖
私的な言語で書かれた文章を私的な文章という場合、当然それは他の誰かに伝えることは難しい。(別人にとって)文章として読むことはできても、その中身が私的であるからだ。あくまで、そのときの書き手が文章に込めようとしたことの痕跡としてある。(書いた本人にとって)文章から私的さを取り出す難易度は、その私的言語の強度による。その私的言語を使って繰り返し書く、あるいはワンショットであっても書き手が実感を持って獲得した感覚や思考であるならば。
ドラフトとしてのメモ/あるいはドラフトとしての日記。揮発性とドラフトの関係性、類似あるいは差異を調べること。
個人のサイトは自分の文体=スタイルの現われであること。つまりここは、(恥らいの有無に関わらず)僕という人間の感性や思考をとり出せ、受け止められる器でなくてはならない。それは(自分らしいと言うよりも)自分のものだと思えるかであり、手に馴染ませる模索であること。
僕の断章は、最終的な成果物としての断章だけでは足りなくて、その断章ができていく過程やバージョンをも保存しないといけないのかもしれない。ドミニクチェン氏のタイプトレースを思い起こさせる記録のあり方を、特別でない個人としても使えるようにすること。
今では、文字列のそれぞれが音声なのかキーボード入力なのかをも保存して再生するしくみも生成AIによって可能そうであるが、それによって何かが起こるだろうか。もしかしたら、文章作成行為において、どの項目を保存し、どの項目を表示する(あるいは演出する)といったことが、それぞれの書き手の出力プロセスや意識を表現することになる。
現代の書籍に、調べる過程がプロットだと感じるものがある。エビデンスを欲する読者に向けた、「調べる」の肩代わり/追体験であり、「ぎゅっと詰め込みました」の自然な再現。裏を返せば、(著名であったり動画発信のフォロワーが多かったりは例外として)見知らぬ個人の意見や理論をそのまま読みたいと思う人が減っているのだろう。もともと少ないのかもしれないが。
私的なことと個人的なことの区別を伝えるのが難しく、ゆえにいったん「私的」という言葉を私的な言語として据えている、というのが現状だ。
職人としてのゲーム開発者みたいな存在へのあこがれ。それは(たまたま見かけたブログの聞きかじりではあるけれど)劇画のツゲ義春さんや辰巳ヨシヒロさんの系譜を、ゲーム開発者にマッピングするようなものであるかもしれない。自らの制作物を芸術という意識で生み出すのではなく技術として生み出す。それもプログラムだけじゃなくてシナリオやゲームデザインにもおよぶような、一般的にクリエイティブと呼ばれる領域をも――むしろそんな領域こそを、芸術家ではなく職人として。
レオナルド・ダ・ヴィンチ→ヴァレリー→東宏治の系譜に連なりたいと思っている。
自分自身への問いにも今後なりそうなのは、いかにもAIで作られたといったサービスに、人々が思い入れを持てるのだろうかということ。
やまだようこさんの著作集を読んでいて、居心地の良さを感じる、その読み心地は何なのだろうか。現代の書籍の引き締まった感じ、エビデンスやリサーチに基づいている感じ、読者を不快にさせない配慮やテンプレetcとは違った、どこか手作りであり、ややもすると素朴であるような。一方で、自身の実感や着想に基づいているといった感覚。
ところで職人とは、誰かに頼まれるのではなく、自らの意思によって、自ら獲得した技術をふるうことはあるのだろうか(特に作品と呼ばれるものを作るとイメージしたときに) あるとして、それは職人と呼ばれうるのだろうか。
いくら自分の文体の行く末を静謐な方向に願おうとも、20年も前の高山とドンフライの殴り合いの動画に心を奪われるという一面も僕にはあるのだ。
ほぼ日サイトの文章やドラゴンクエストの画面など、あきらかに一目でそれ(「ドラクエだな」)と受け取り手に感じさせられるきわめて少数の作品や表現がある。それがどのように生まれるのかはほぼ分からないにしても、1作品や1ページだけで成立しないことだけは直感する(あるいは思考の癖として)。デザインシステムという言葉で大まかに済ませてはいけないと思われる、何かしらの一貫性。
さまざまな漫画作品におけるフォントの使い分けについて着目すると、思ったよりずっと多くのフォントを使っていることが分かったと同時に、これまではフォントの違い(明らかな強調や演出的なフォントはさすがに気がついたけれど、それよりは些細な差を意識せず)による効果だけを受け取っていたことへの驚きとショックとがある。これからは、違いを意識する目と違いを意識しない目をトグルしなければならないのだろう。
僕が今まで解題したと言えそうな作品は『ドラゴンクエストⅠ』だけかもしれない(それも『シルアードクエスト』をつくるために)。
45歳の僕にとってしっくりくる文体。それも、ここから10年(55歳ぐらいまで)自然に付き合う文体として。(あらためて東宏治さんの文体を改めて真似することも含めて)恥や外聞、あるいは照れを気にせずにやってみること。誰にも見せない前提のモードで。
『生成AIで心が折れた』にも、感情に向き合うことが記されていた(171p)。『自分の小さな「箱」から脱出する方法』、『感情は、すぐに脳をジャックする』といい、複数の本が同じところを指していると感じられる。そこを読み手としての僕が着目/抽出している。
毎日、(日記や日誌ではなく)断章が書けると良いのだが。
個人の作り手として生成AIを使わずにはいられない一方で、生成AIで作られた匂いのする作品(例えばゲーム)に対する不信の自発的停止はどのように作動しうるか。なにしろ僕自身が見知らぬ個人が作ったゲームへの不信を拭い去れないのだ……。
頭脳は… 根性だぜ!!
僕がこうして断章に書いている思考の手前のものを思念と呼んでみるのはどうだろう。
生成AIを使うと良くも悪くも大量に実装でき、一通り揃えることができる。それゆえに生成AIを使った作品や商品は大量の要素を見せつけることになり、プレイヤー(受け手)は途方に暮れるし、(生成AI的なたたずまいに)時間を奪われていく感覚も生じてくる。このときプレイヤーを尊重するデザインとして、引き算のデザイン、あるいは少しずつ開示していくデザインのようなものが考えられる。プレイヤーと信頼関係を作る体験の流れ、あり方、礼儀/儀礼として。
AIと一緒に制作をすると、分析的・洞察的ではあるにしても、足し算的にドキュメントが溜まり、積もり、やがて層ができていく。そこで統合的、あるいは引き算的にドキュメントをまとめたいのだけれど、その中に自分が手やキーボードで書いたテキストがある場合にためらってしまう自分に気がついた。AIに自分のテキストを(あるいは自分を)消されるのではないかという、恐れ、不信。
基本がデスクトップである(ノートパソコンではない)がゆえに、旅の時は手帳に書くという、モードの切替え。
個人の記録を集めるものとして、AI的な文章への嗅覚は常にするどくあること
僕よりも早起きの家族=配偶者がいる状態で、ヴァレリーのカイエ(毎朝、思考を書き続けること)は成立するのだろうか(夜寝る前に書くのはカイエ的ではない――そう思った直後、すぐにこの疑念に至る)
(生成AIの出力分野における)自分の手のうちに入れられる範囲がどこまでかという見極め。そして自分が90点のものを出したいと思ったときに、生成AIが60点のものを出してきた場合、それを自らで90点に引き上げられる範囲でないと、作品としての一貫性を担保できなくなるのではないか――そしてそれをユーザー/遊び手にたやすく見破られる――という前提。
AIサブスクで生成プレイするシミュレータを作れないだろうか?