自分のためだけの制作理論(あわよくば多作に至るための)
職人としてのゲーム開発者みたいな存在へのあこがれ。それは(たまたま見かけたブログの聞きかじりではあるけれど)劇画のツゲ義春さんや辰巳ヨシヒロさんの系譜を、ゲーム開発者にマッピングするようなものであるかもしれない。自らの制作物を芸術という意識で生み出すのではなく技術として生み出す。それもプログラムだけじゃなくてシナリオやゲームデザインにもおよぶような、一般的にクリエイティブと呼ばれる領域をも――むしろそんな領域こそを、芸術家ではなく職人として。
自分自身への問いにも今後なりそうなのは、いかにもAIで作られたといったサービスに、人々が思い入れを持てるのだろうかということ。
ところで職人とは、誰かに頼まれるのではなく、自らの意思によって、自ら獲得した技術をふるうことはあるのだろうか(特に作品と呼ばれるものを作るとイメージしたときに) あるとして、それは職人と呼ばれうるのだろうか。
さまざまな漫画作品におけるフォントの使い分けについて着目すると、思ったよりずっと多くのフォントを使っていることが分かったと同時に、これまではフォントの違い(明らかな強調や演出的なフォントはさすがに気がついたけれど、それよりは些細な差を意識せず)による効果だけを受け取っていたことへの驚きとショックとがある。これからは、違いを意識する目と違いを意識しない目をトグルしなければならないのだろう。
個人の作り手として生成AIを使わずにはいられない一方で、生成AIで作られた匂いのする作品(例えばゲーム)に対する不信の自発的停止はどのように作動しうるか。なにしろ僕自身が見知らぬ個人が作ったゲームへの不信を拭い去れないのだ……。
生成AIを使うと良くも悪くも大量に実装でき、一通り揃えることができる。それゆえに生成AIを使った作品や商品は大量の要素を見せつけることになり、プレイヤー(受け手)は途方に暮れるし、(生成AI的なたたずまいに)時間を奪われていく感覚も生じてくる。このときプレイヤーを尊重するデザインとして、引き算のデザイン、あるいは少しずつ開示していくデザインのようなものが考えられる。プレイヤーと信頼関係を作る体験の流れ、あり方、礼儀/儀礼として。
(生成AIの出力分野における)自分の手のうちに入れられる範囲がどこまでかという見極め。そして自分が90点のものを出したいと思ったときに、生成AIが60点のものを出してきた場合、それを自らで90点に引き上げられる範囲でないと、作品としての一貫性を担保できなくなるのではないか――そしてそれをユーザー/遊び手にたやすく見破られる――という前提。